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奢った僕

 僕は少なくともあいつよりはマトモだし、マシだし正しいと思っていた。僕の言うことはいつでも中立で僕の行動はいつでも理に適っていると思っていた。でも違っていた。根本的に違っていた。僕は致命的になり得るかもしれないミスを犯していた。それに気づいた。

 僕の奥さんは、たとえば旅行に行ったりしても、たとえば今のように気持ちのよい春の陽射しを浴びても「ウットリ」しない。僕はする。してた。それが当然のことだと思っていたし、そうするべきだと思っていたし、事実、そういうシチュエーションに出くわせば、僕はいつでも「自然」に感動することができた。そしてそれを「誇り」に思っていた。でもそれが、それ自体が愚かしいことだと僕は知った。

 僕が「なぜ君は大自然を目の前にしても心を揺さぶられたりしないの?」と訊いたとき、僕の奥さんは言った。

 「それが当然のことであるから」

 自然はそこにあって、そこに営みがあって、それらはすべて至極当然の成り行きでまさに然るべく状態にあるだけであって、それは僕らが普通に生きていることとなんら変わりない。それが「自然」であることだと僕の奥さんは言った。「それなのに、なぜあなたはそこに感動なんて覚えるの?」と逆に訊かれ、僕は頗る困ってしまった。

 たとえば、僕ら人間にも、その人間の生き方そのものに感動する人だっている。でもそれは「生きる」にあたって当然のことであり、そこにもまた、その人間の「必然性」がそこにあっただけに過ぎず、それに感動を覚えることもない。と、僕の奥さんは言う。

 自然を不自然に気にすること。それをわざわざ取り上げること。それこそが「奢っている証拠よ」と、僕の奥さんは言った。

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